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丘と岡が明かす天孫降臨





 
 この書は「丘または岡とつく山」に託されていた天孫降臨の足跡をたどり、その謎を解き明かしていった報告書です。
 
   内容の紹介
 この書は天照大御神と高木神が国づくりを始め、この心を受け継いだ命(みこと)達の活動を解き明かしていった報告書です。また隈なく日本を巡り建国の心と、感動を求めた時空の旅の書でもあります。 第一部は、神々が住む高天原を離れ高千穂峰に立った、邇邇藝命の新しい国づくりの報告です。八重たな雲を押し分け、道別き道別きた道程を経て、高千穂峰に立った邇邇藝命は「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」の地形を確認すると、山々に「丘と岡」の名をつけながら一歩々々、建国の道を進みました。 丘と岡の組み合わせで、この降臨の旅が七年をかけた遠征であったことが見えてきました。薩摩半島の笠沙碕にいたる後も、大隅半島を経て南九州を逆「の」の字型に進んでいたのです。なぜ七年もの年月が必要だったのでしょう。興味はつきません。


「丘と岡」で記録した旅の最終地点は八代海の獅子島でした。およそ1800年も前のできごとが、「丘と岡」の山々に記録されていたことに感動します。一つひとつの丘や岡の名前に、当時の人の文化や考えが読み取れて、遺跡や記紀が記す事柄と異なる古代人の英知を知ります。 古代を訪ねる旅の中で、天孫降臨を先導した猿田彦命の出自や動機、待ち受けた八街を見つけました。なぜ猿田彦の名なのか、南九州に残る巨人伝説「弥五郎どん」との関係などが見えてきます。猿田彦命の旅は八代海の獅子島で終わりますが、そこには邇邇藝命を高千穂峰に導いた猿田彦命の業績が刻まれていました。 邇邇藝命の陵は可愛山陵です。可愛と書いて「えの」と読みます。邇邇藝命の木花之佐久夜比売への思いが、陵の名として永遠に残されたのです。殺伐とした戦いでなく、古代ロマン溢れる国づくりを知ります。 第二部はでは、いよいよ神武東征から日本武尊東征へと国づくりの歴史が進みます。そして国づくりが多くの人達により成し遂げられたことが見えてきます。日本各地で見つかる破鏡は出征兵士家族の絆の証しでした。年老いた父母は残された破鏡とともに葬られ、妻や子は小さな鏡の破片を大事に、出征兵の後を追ったのでしょう。無くしたのか住居跡や溝の中に破鏡が見つかり、心が痛みます。そんな東征の中での古代人の心を求めて、感動の旅を続けます。

 第二部は薩摩半島に残る二つの高倉山がきっかけです。邇邇藝命と木花之佐久夜比売の出逢いの場所を示す、この高倉山は豊受大神の心を託した山でした。東征を決断した豊受大神こそ建国の功労者と考えますが、東征を追い宇陀の高倉山で、神武に新しい国を託した後は漂泊の中、天照大御神の御魂に仕える日々だったことが見えてきます。 忘れ去られようとした、この豊受大神の心が倭媛命や日本武尊に受け継がれ、東国東征の旅では各地に高倉山を残していました。さらに高倉山と同種の山・○倉山までが日本武尊東征での名づけだったのです。東征現場の出来事が、このように山々に記録されていたことに感動し、世界の片隅でこんな建国があったことを誇りとします。